【エッセイ】いくさ場にうらみ残すな今朝の月

私の生国、むかし常陸と言われた地域は近世以降しごく平和な土地であった。

幕末の動乱世でさえ、水戸藩の天狗党が筑波山に籠ってチャンバラを繰り広げた程度で、

維新の際はごく穏便にことが済んでいる。

それどころか、私の住まう田舎は太平洋戦争中にまともに空襲に遭ってすらいない。

あきれるほどなにもないのである。

その代わり傑出した人材は出ていない。

文学史においては筑波山で歌垣が豊かだったくらいで、あとは哀しいくらいだぁれもいない。

世界史にはかろうじて間宮林蔵が海峡に名を残している程度で、

その間宮林蔵は常陸国が嫌いだったというのだからなんとも切ない。

さてそんな私がこのたび会津若松の地に、足の裏をひっつけて歩いた。

この旅の中で戦争なるものの怨みが百年二百年とつらなるのだと、

いたくしみじみ知ったのである。

本日は、そんな話を語る。

会津、薩摩、長州のみなさまがたには

「そっただかんたんな話じゃなかっぺよ」

と言われるようなことも書くが、どうぞそのときは薄笑いして流していただけると幸いなり。

会津といえば戊辰戦争である。白虎隊などは幕末の悲劇として名高い。

それは日本のサムライの忠節の精神をあらわすとして海外からも評価高い。

イタリアなどは感動してポンペイの柱をわざわざ寄贈してくれた。

飯盛山は白虎隊の墓地に古代西洋様式の柱は今も立っている。

会津若松駅を出て驚いたのはどこに行っても

〈白虎隊〉の文字が浮かんでいることだ。

駅前には白虎隊の少年らの銅像が立つ。おみやげ屋さんには白虎隊グッズが並ぶ。

ハッスル黄門さまや、納豆ゆるキャラねばーる君でお茶を濁す東国とは対象的に

ネタが豊富でうらやましい。

ともあれ。

いざ幕末史をたどって飯盛山と鶴ヶ城を攻めてみた。

城跡地だけあって、道はくねってなかなか風情がある。

そびえ立つ鶴ヶ城は、しらじらと壁が曇り空のうすい陽光に照り映えて

赤瓦を重ねた屋根が非常にうつくしい。

その鶴ヶ城内部はまるまる資料館となっていて

キリシタン大名の蒲生氏郷や、江戸幕府初代大老の保科正之など

歴史ヲタク的においしいメンツも触れてくれる。

けれど、もちろん戊辰戦争の資料がメインディッシュ。

松平容保から新選組、白虎隊に大河ドラマの新島八重など

豪華有名どころが並んでいる。

さてその戊辰戦争の烈しさといったらすさまじい。

私が記すと長いからググっていただけるとありがたい。

基本的には〈朝敵・会津〉VS〈官軍・薩長〉の図であった。

その折におそろしいほどの死者が出た。

戦争なんだからそりゃあ当たり前なのだが

いわゆる「忠義の死」というものがあまりにも多かったと

この地を歩いてあっけにとられた。

主君を守って自分は責任を負い、割腹した家臣だとか

全滅覚悟の婦女子隊だとか、そういう碑が街中てんこもりだ。

そしてそれは美徳だったのである。時代的にも当たり前の話だが。

もちろん当時は平和主義なんて普遍的でないのだ。

戦ってなんぼなのである。戦うことは守ることであり、

守ることは誉むべき尊いことなのである。

ましてサムライは主君と民を守るために二百六十年間、家禄を食んできたのである。

しかし私はこの地に来るまで

歴史の乾いた記録対象として白虎隊や戊辰戦争を見ていた。

それは私がどこも直接的な当事者ではないからだ。

当事者でないから、こんなに戊辰戦争の悲劇が

今も大きくあつかわれているのに、なんだか奇妙な心地になったのだ。

この地のひとは、いまだに百年前をかえりみているのか。

その目線の先から〈官軍憎し〉がどこからか、伝わってきて、

なんだか、あっけにとられたのである。

でもなんだかんだいって、

薩長主導の明治政府は柔軟なところがあったのは、

鶴ヶ城掲載の資料の終盤部をよく読むとわかった。

たとい「朝敵」会津の出であろうとも、重用するべき有能者は要職に就かせた。

また会津人もたくましく、北海道はじめ各地でみずからの道を拓いていった。

そもそも挙国一致でないとやっていけなかった

明治時代の荒波からいったら当然の流れなのだが。

れきしってむずかしい。

ただの旅人の素朴な感興として

福島、山口、鹿児島はじめとした皆様には流していただきたいのだが。――

〈白虎隊〉は、もう、そろそろ、振り返るのやめたほうがいいんじゃないかなあ。

あんまり怨みを残すような伝え方でも、なんだかなあ。

建設的に、「会津といったら保科正之公」とかにしておいたら如何だろうか。

あのひと、超名君だし。江戸時代初期に偉大な名を残してるし。

マイナーだけどね。

私は平穏うららかな東国に生まれて育った。

特に苦労しなくても作物は成る。江戸東京から近く、商いその他やりやすい。

天下の副将軍もいる。雪も苛烈な暑さもない、土壌はそれなりに肥沃だ。

暴君の噂を聞かない代わりに名君の話も少ない。

だからとくになにも出ないのだ、と、茨城県民は笑っている。

艱難の地域、みちのく。

飢饉や戦があまりにも多い地。

あの地で百余年前の戦争はなお生々しい。

鶴ヶ城最上階には〈俳句ポスト〉なるものがあった。

短歌は少しかじるが、俳句はあまり得手ではない。

でもなんだか、うずうずして、駄作とわかりつつ詠んでみた。

ーーいくさ場にうらみ残すな今朝の月

ちなみに福島県ということで原発事故の影響についても、一言。

小学生のときに訪った折よりも、おそろしく寂しくなっていた。

やはり観光客だけではなくて、

現地の人もかなりの数、この地を離れたのだろうと痛切に感じたものである。

なんせ夜の会津若松駅前に車が二台程度しか走っていないのである。

建物があるだけ余計に淋しかった。

しかし私は知っている。

放射線量のホットスポット的には

茨城のほうが一時期福島よりも断然ヤバかったということを。

検査がしっかりしているなら福島のやつを食べても、茨城の作物と大差ないと割り切った。

で、すごくおいしかった。

艱難の地、福島。

事故ったことのある原発も存在する南隣の郷の人間として、

応援してる。がんばっぺ。

もう一句。

ーー山路ふみ青葉の下の魂しずめ

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